クジラはカンキョウモンダイ!?
どういうわけか、日本では「クジラの問題」が「環境問題」として認識されていないようです。1972年の国連人間環境会議において商業捕鯨禁止が提唱され、さらに1982年にはIWCの場においても商業捕鯨のモラトリアムが可決された裏には、政治的な陰謀があったと吹聴する人びとさえいます。
では、そもそも、「環境問題」とは何でしょうか?
いうまでもないことですが、私たち人間がこの地球という惑星の上で生きていけるのは、水や空気、食物など、私たちが生きていくのにふさわしい条件がそろっているからです。自然は、人類の社会が必要とするさまざまな資源を提供してくれますが、そればかりではありません。大気・水質・土壌を浄化したり、気候を調節するなど、とても大切な機能を担っているのです。例えば、私たちが宇宙から降り注ぐ有害な放射線に遺伝子を傷つけられず地上で生きていけるのは、太古の藻類が産み出した酸素が成層圏でオゾン層を形成してくれたおかげです。地表の温度が、金星みたいな高温にならずにすんでいるのも、温室効果を促進する二酸化炭素を森林やサンゴ礁、あるいはクジラなど海に住む大型動物が固定してくれるおかげです。そして、人間が暮らすのにちょうどいい環境の安定性を支えているのが、生きものたちのネットワークです。生物とそれを取り巻く無機的環境との相互作用に加え、数百万といわれる生物種が、網の目のように複雑に結び付き、互いに影響を及ぼし合うことで、自然のバランスが保たれているわけです。
ところが、科学技術の発達と文明の進歩に伴い、そのバランスが次第に乱れてきました。無数の化学物質の氾濫、乱獲や開発による生物種とその多様性の減少、大量の温室効果ガスの排出など、人類の諸活動は、自然のペースを上回る速度と規模で自然に変化をもたらし、その安定を損ねています。それでも、人間が進化の過程で誕生した動物の一種であり、生態系の構成要素である以上、自然の支えなくして生きていくことは決してできません。「自然環境をなぜ守る必要があるのか?」といえば、それは自然こそが人類の存立基盤であり、私たちの社会も、経済活動も、その上に初めて成り立つからです。
絶滅因子 | 哺乳類 | 鳥 類 | 爬虫類 | 両生類 |
---|---|---|---|---|
生息環境の悪化 | 19 | 20 | 5 | 100 |
乱獲 | 23 | 18 | 32 | 0 |
侵入種の影響 | 20 | 22 | 42 | 0 |
その他 | 2 | 3 | 0 | 0 |
不明 | 36 | 37 | 21 | 0 |
・・・と、ここまでは、「環境が大事だ」と思っている人ならだれでも共通認識として持っていることでしょう。では、具体的に自然を守るとはどういうことでしょうか? それは、私たちの生存基盤としての環境の調節機能を維持できるだけの"健全さ"を保つことに他なりません。すなわち、自然の〝多様さ〟と〝豊かさ〟を守ることです。
多様性には、それぞれの生態系に含まれる「種の多様性」、また種の健全さを確保するための遺伝子のストックとしての「種内の地域個体群の多様性」、そして進化史の流れの中で地域ごとに独自に発展してきた、全体としての固有性を持つ「生物群集あるいは地域生態系の多様性」があります。つまり、熱帯林からツンドラ、サバンナから湿地、赤道直下のサンゴ礁から南極海に至るまで、地球上にある自然の形態がバラエティに富んでいることこそ重要なのです。より自然度の高い、健全な生態系をより多く残すことが、いま何より求められているのです。
生態系が健全であるとはどういうことでしょう? その構成要素である種が絶滅しないのは無論ですが、それぞれの生態系において十分な役割を果たすだけの生息数を保っているかどうか、種と種との関係やそのバランスが維持されているかどうかも重要な指標なのです。農業・医薬・化学などの産業分野における遺伝子資源としての有益性の観点からみれば、施設で人工繁殖するなり、あるいはDNAだけ保存すればすむのかもしれませんが、それではもはや自然環境の保護とはいえません。
もちろん、自然を守るということは、「自然をまったく利用するな」ということではありません。現代の文明を捨てて「野生に帰れ!」というのも無理な相談です。しかし、私たち自身の生存基盤がそこによりかかっている以上、自然を損ねないよう十分配慮する必要があります。何しろ、人類はこれまで、トキやニホンオオカミなど多くの生物種を絶滅に追いやってきた〝前科〟があるのです。たとえ絶滅を免れても、絶滅の瀬戸際まで追い詰められ、未だにその淵をさ迷っている野生動物も数多くいます。例えば、捕獲禁止後半世紀以上たっても未だに回復のままならないシロナガスクジラのように。また、種としては存続していても、一部の地域に住む個体群を絶滅させられたものもあります。例えば、北大西洋のコククジラは、近代以前の捕鯨によって絶滅したとみられます。北太平洋では、東側の個体群は危機を脱しましたが日本沿岸に回遊する西側の個体群は絶滅寸前の状態をさまよっています。
それらの野生動物の中でも、とりわけ絶滅の危機に陥りやすく、特別な注意を要するタイプの種があります。食物連鎖の上の方に位置し、おとなになるまで時間がかかり、こどもを産む数の少ないものがそうで、生態学の用語ではこれらの種をK種と呼んでいます。K種に含まれる種は、汚染や生息地の破壊、乱獲の影響を受けやすく、非常にデリケートなため、真っ先に保護が求められるのです。陸上では猛禽類や大型のネコ目などがあてはまりますが、クジラはまさにそのK種の代表選手なのです。
私たちが自然を利用する際には、単純に絶滅さえしなければいいという考えではいけません。生態系の健全さが保たれているかどうか注視すること、そして、とくに人間に対して弱いデリケートな種があることを、十分理解しておく必要があるのです。
ひとつのやり方が、自然度のより高い地域を自然保護区(コア・ゾーン)に指定して人間活動を厳密に制限し、周辺に緩衝地帯(バッファ・ゾーン)を設けるというものです。これはユネスコをはじめ、国際的にも広く認められている、最もオーソドックスで有効な環境保護政策でもあります。身近なところでは原生林と里山の関係がこれにあたります。世界レベルでいうなら、固有度が高く、どこの国にも属さない利点もあることから、南極と周辺海域を野生動物のサンクチュアリにするのは、実に理にかなったことです。
また、すでに痛めつけてしまった自然に対しては、伝統的な狩猟や漁業においても理解されているように、十分な回復がみられるまでそっとしておく(モラトリアム)ことも、必要かつ合理的な措置といえます。そう……例えば、商業捕鯨によって鯨類のトータルのバイオマスが大幅に減少してしまった南極海のように。
シロナガスクジラが、南極海生態系や、大洋の深海にできる鯨骨生物群集等に対して果たしてきた役割を代行することは、人間には決してできません。いま、シロナガスクジラが自然の中で担ってきた役割の一部を〝暫定的に〟引き受けてくれているのは、クロミンククジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラ、カニクイアザラシ、ミナミオットセイ、各種のペンギン、その他のオキアミ食の生きものたちです。それらの特定の一種を人間が間引いたとしても、シロナガスクジラを回復させることは絶対に不可能です。人間がクジラを、南極の自然を管理し、コントロールできると主張するのは、あまりにも浅はかな思い上がりにすぎません。私たちは、歴史の過ちから、自然から、まだまだ多くのことを学ぶ必要があるのです。
かけがえのない自然は、できる限り手をつけないに越したことはありません。最近では、生態系サービスという言葉も使われるようになりました。自然はそこに存在するだけで、また、豊かで健全であればあるほど、社会的・経済的利益を私たちにもたらしてくれるのです。もし、その自然を消費的に利用するのであれば、保全することの価値を上回るほどのまっとうな理由があるかどうか、十分に斟酌することが求められるわけです。
慢性的な栄養失調で亡くなる児童が年間数百万人に上る時代、有り余る食べものを大量に捨てている北半球の飽食大国が、赤道を越えたはるか南極の野生動物を「旨い刺身」として貪ること。人類共有の財産として、南極海の自然とその要となるクジラという種を守っていくこと。一体そのどちらが、世界にとって本当に大切なことでしょうか──?
熱帯林、深海、南極圏など、人類が進出してから歴史が浅く、身近な自然としての体感的な理解、知識の蓄積のない〝不慣れ〟な生態系に対しては、その利用によほど慎重であるべきなのです。そもそも、汚染や乱開発、乱獲によって、身近な自然が荒廃してさえいなければ、無用に手を広げて豊かな自然の価値を損ねる必要はないのですから。
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