日本の鯨肉食の歴史的変遷
先史時代
日本では縄文時代の貝塚からクジラの骨が見つかったり、クジラ猟の模様が描かれた土器が出土しています。当時日本列島に住んでんでいた人々は、現代人は口にしないアザラシ・オットセイ・ジュゴンなど、さまざまな動物を利用していました。いずれにしても、先史時代における海獣類の利用は、中国から技術が伝来したとの説もある中世以降の古式捕鯨や、明治以降に西洋から導入された近代捕鯨とは文化的系譜を異にします。
古くから北海道に住んでいたアイヌの人々は、江戸時代まで噴火湾などでクジラを捕獲していました。その方法は、トリカブトから採った毒を先端に塗った銛で、小舟でクジラに近寄って突くというものでした。アイヌの集落では、座礁したクジラのもたらす幸に感謝する鯨祭や歌もあったことが知られています。一方で、ニシンの群れを沿岸に追い立ててくれるクジラを、恵みをもたらす存在として、むやみな捕獲を避ける風習もありました。また、生産物は交易にも用いられていましたが、数が減っても利益を優先して積極的な捕鯨を続けるようなまねはしませんでした。同じ共存といっても、漁業との競合を理由にクジラやアザラシを害獣とみなす水産庁の口にする〝共存〟とは言葉の重みが段違いです。
その後、和人が北海道に進出するに伴い、アイヌの人々はこれまでのようにクジラと共存することができなくなりました。松前藩は、アイヌによる捕鯨を一方的に管理して彼らを労働力として搾取し、鯨肉なども藩の産物として流通させ始めたのです。さらに、時代が明治に変わると、明治政府によってアイヌの捕鯨そのものが強権的に禁止されてしまいます。
今日、小型沿岸捕鯨を伝統的な生存捕鯨として認めさせるために、アイヌの捕鯨を引き合いにする向きもあるようですが、両者の間に文化的な結びつきはまったくありません。これらは業者が各地に持ち込んだノルウェー式の近代捕鯨で、むしろ大手とのつながりが深く、遠洋捕鯨の演習台として利用されていたのが実状です。母船式捕鯨が南極の海で華やかに繰り広げられていた頃、国も業界もアイヌの捕鯨再生になど目もくれませんでした。そればかりか、議員がアイヌの存在そのものを公然と否定する始末です。ほかでもない森下前IWC日本政府代表・現IWC議長も、米国紙に日本政府のサケ漁と捕鯨に対するダブルスタンダードについて問われ、「たまたま起こったことだ」と平然と答えたのです。日本は先進国の中でも最も先住民の伝統を尊重する姿勢が見られない国なのです。
詳細はこちら→倭人にねじ伏せられたアイヌの豊かなクジラ文化
捕鯨とアイヌのサケ漁──食文化にこだわる日本人よ、なぜこのダブスタを許すのか
古式時代
組織的な捕鯨の記録が史料の中に見出されるようになるのは室町時代の末期のことです。初期に捕鯨が行われた地域では、他にめぼしい産業がなかった一方、海賊や水軍が盛んだったといわれます。主産物は鯨油(灯火用及び水田のイナゴ防除用)の方で、鯨肉は獣肉に似ているとして忌避され、消費は地場が中心でした。
やがて捕獲頭数の増加に伴い、各地方に組織された鯨組は商人・藩政と結びつき、関西を中心に販路を拡大します。中には、藩の後ろ盾をバックに漁場を占有し、零細漁民の生業を奪ったところもありました。当時から日本の捕鯨は商業的色彩がきわめて濃く、「製銅に次ぎ製鉄に匹敵する日本屈指のマニュファクチュア」とされるほどの一大産業と化していました。その発展の過程で、主な捕獲対象だったコククジラやセミクジラの減少を招き、捕鯨発祥の地である尾張や関東の三崎などでは、間もなく捕鯨業そのものが途絶してしまいました。有名な太地では、突取式から網取式への漁法の転換がなされましたが、これは乱獲による捕獲量の減少を補うための技術革新だったのです。捕獲効率が飛躍的に上がったことで、ザトウクジラも乱獲の悲劇に見舞われます。
シーボルトの記録などをもとにした推定では、古式捕鯨最盛期の全国でのクジラの捕獲数は年間800頭程度に上ったとみられます。古式捕鯨時代にクジラが減ったのは外国の帆船式捕鯨のせいだとよく言われますが、その主要な対象はマッコウクジラですし、外国捕鯨船が日本に進出する前から減少は始まっていました。日本のクジラの多くを激減させた責任は、専ら日本自身の江戸時代の捕鯨にあるのです。
詳細はこちら→哀しき虚飾の町・太地~〝影〟の部分も≪日本記憶遺産≫としてしっかり伝えよう!
戦前
明治に入ると、山口県出身の事業家岡十郎がノルウェー式の捕鯨技術を導入し、近代捕鯨の幕が開かれます。独自技術に頼ってきた中世の和式捕鯨からの脱皮は、日本人とクジラとの文化的関わりにも深い断絶をもたらすことになりました。それまでは曲りなりにも寄り鯨を対象にした待ちのスタイルを維持していたため、クジラの個体群への影響も限られたものでしたが、積極的な攻めの姿勢に転じることで事態は様変わりします。捕鯨事業の収益の高さに目がつけられ各地で捕鯨会社が乱立、近海のクジラを乱獲し、瞬く間に資源状態が悪化し、結果として業者が淘汰・整理されることになりました。合併・統合の結果生まれたのが、その後母船式捕鯨の担い手となった大手水産企業の前身です。その後、これらの捕鯨会社は当時の政府の拡張政策のもと、欧米諸国が生産量調整のために結んでいた国際協定にも参加せず、北洋・南氷洋への進出を果たし、捕獲量も急激に膨れあがりました。
岡が創業した東洋捕鯨の進出先の一つが八戸でした。八戸ではクジラは豊漁をもたらす恵比寿として大切にされていました。捕鯨会社の進出に対し、地元の漁民たちは「港湾が汚染される」「魚が獲れなくなる」と猛反対し、死者まで出る暴動に発展しました。
この時期の捕鯨業は鯨油をヨーロッパに輸出して外貨を稼ぐことを主な目的としていました。とりわけ南氷洋捕鯨は沿岸捕鯨との兼ね合いもあり、鯨肉は持ち帰ることなくほとんど海に廃棄していました。海外に市場を求めた鯨油に対し、鯨肉の方は国内でも需要がなくダブツキ気味だったため、軍需に活路が見出されることになります。日清・日露・太平洋戦争を通じ、商品価値の低かった鯨肉は軍用食糧として重宝されました。植民地化した朝鮮半島には缶詰工場が建てられ、占領地や前線に鯨肉の缶詰が移送されました。捕鯨業界は得意先となった軍隊と強固な絆で結ばれ、同様の関係は戦後の警察予備隊・自衛隊に引き継がれることになります。もっとも、太平洋戦争末期には頑強な捕鯨船が軍艦として徴用され、捕鯨業自体は一時中断を余儀なくされました。
詳細はこちら→国際規制を無視し続けた戦前の捕鯨ニッポン
戦後
太平洋戦争が終わると、逼迫した日本国内の食糧事情の改善を図るべく、GHQは捕鯨操業にゴーサインを出しました。食糧難の折、鯨肉は全国に配給され、当時の日本人の動物性タンパク摂取量の実に4割を占めました。しかし、復興とともに国民の栄養状態が改善されるや、他の肉類よりも安価であるにもかかわらず臭味のために敬遠された鯨肉は、1950年代初頭には早くも供給過多となります。膨大な在庫に頭を抱えた捕鯨業界は、販売促進のためのキャンペーンを張ったり、設備に資本を投下して加工食品の形で需要開拓を図ろうとしました。また、軍隊に代わる大口の需要先として自衛隊や学校給食、さらに動物園などの飼料用途に活路を求めたのです。
戦後においても、食糧難時代の一時期を除けば、捕鯨産業にとって生産の主力となったのは輸出用の鯨油で、鯨肉は市況の不安定な鯨油の穴埋めの役にすぎませんでした。その後、過剰生産と安価な代替油脂類の登場によって鯨油の価格は下降の一途をたどり、捕鯨業界は否応なく生産の比重を鯨油から鯨肉に移さざるを得なくなりました。そして、西欧の捕鯨国が次々に撤退していく中、高度成長期のさなかにあった日本の水産業界は、他産業に遅れをとるまじとひたすら増産態勢の維持に努めました。他国の母船を捕獲枠付で買い漁り、条約未加盟国から輸入したり、条約外の海外基地から捕鯨船を出すなど、規制逃れの策に奔走したのです。
その後規制がさらに強化されると、旧ソ連とともに捕鯨会社自身が捕獲数の報告を偽ったり、関係者がバイヤーとして海賊捕鯨に関わるなど、目に余る悪質な違反行為によって規制を有名無実化してしまいました。結果として、企業間競争によってオリンピックに例えられた南極海での乱獲の総仕上げを果たし、鯨類資源の枯渇に大きな責任を負うことになったのです。
《戦後の鯨肉需要の実態》
■給食
子供たちの健康を左右し、食に対する意識を学ぶ場となるはずの学校給食。一方で、消費者としての選択権がないため、調味料や加工・輸入食品の普及を図る〝政策の道具〟にされ、伝統的な食文化を破壊する中心的な役割を担ってきました。捕鯨産業にとっては、自衛隊や刑務所などとともに、公共調達による大量の安定需要が見込める得意先でした。1971年の学校給食の肉類消費量のうち、13%にあたる8,400tが鯨肉でした。'73年の推定では国内の鯨肉生産量の12%に当たる15,000tが給食用。これが、戦後世代が鯨肉の竜田揚げなどに郷愁(あるいはトラウマ)を感じ〝させられる〟所以です。
■加工食品
不人気でアブれた鯨肉の在庫に頭を悩ませる業界を救ったのが、ハム・ソーセージなどの練製品の加工技術の開発でした。いわゆる魚肉ソーセージは、原料の半分を占める鯨肉にマグロの肉を混ぜ込み、香辛料をきかせることで本物のソーセージを模したものです。大手水産会社はオートメーション工場による生産体制を整え、魚肉ソーセージの量産・普及を図りました。後に原料は白身の魚に取って代わられますが、多くの日本人はそれと知らずに鯨肉を口にしていたわけです。ほかにも、コンソメスープの原料にするなど需要開拓のために〝苦肉〟の策が試みられました。
出典:「神話を越えて──クジラと日本」(岩崎サチコ、オレゴン大学)
■動物園
1970年代まで、動物園で飼育されている肉食獣・雑食獣の主要な飼料として、商品価値の下がった鯨肉が選ばれていました。もちろん、学校の子供たちと同じく、動物たちに選択権はなかったわけですが。1952年の恩賜上野動物園の創立70周年記念祭には鯨館もお目見えし、キャッチャーボートの展示品や鯨製品の即売が行われましたが、関係の深さの一端を示すものといえそうです。商業捕鯨が縮小して鯨肉の価格が上昇してからは、馬肉がこれに代わります。
■毛皮養殖
1950年代末より、日魯、大洋、日水、日東などの捕鯨関連会社は、相次いで毛皮獣の養殖業に乗りだします。これは有り余る鯨肉に手を焼いた業界が考えついた、在庫処理を兼ねた事業の多角化でした。飼料に用いられていたのは主にエキスを絞った残りやマッコウクジラの肉で、近海大型捕鯨の生産物のうち年間6,000t~9,000tはミンクの飼料用に充てられていました。アメリカに輸出した鯨肉も養殖飼料向けでしたし、イギリスやオランダなどにはペットフードの加工原料として輸出されていたこともあります。
ライオン (多摩動物公園) |
トラ (栗林公園動物園) |
ヒョウ (東山動植物園) |
ホッキョクグマ (日本平動物園) |
ゴールデンキャット (天王寺動物園) |
タヌキ (日本平動物園) |
テン (多摩動物公園) |
6,000 | 2,000 | 1,000 | 5,000 | 500 | 150 | 50 |
出典:飼育ハンドブック1(日本動物園水族館協会)
詳細はこちら→戦後の日本の鯨肉消費の実態
そして、現在…
- 「島国日本に不可欠の動物タンパク源」
- 「日本民族固有の伝統食文化」
- 「アトピーにも効くヘルシー食品」
- 「地球を食糧危機から救う救世主」
捕鯨に対する国際世論の目が厳しくなり、商業捕鯨モラトリアムがIWCで可決される中、日本の捕鯨業界と水産庁はこれらの〝キャッチコピー〟を次々に打ち上げてきました(互いに矛盾しているものもあるようですが…)。まさに生き残りを賭けた必死のPRだったのです。以下にざっと検証しましょう。
1.は最初に打ち出されたもので、新聞の社説で取り上げられましたが、国内でもまったく説得力を持たなかったため、すぐに引っ込められました。
2.は、日本人の自尊心をだいぶくすぐったようで、著名人の一部から熱烈な支持を獲得しました。彼らはそれぞれの分野で〝宣教師役〟として捕鯨擁護論を広め、メディアを通じて影響を及ぼしました。実際には、日本捕鯨協会より委託を受けたPRコンサルタント・国際ピーアールの梅崎義人氏が発案し、協会が懇親会を組織して普及に努めたのです。しかし、海外の支持を得るには至りませんでした。なぜ生存捕鯨の枠が認められたのか、少数民族の文化に敬意が払われるのか、捕鯨の文脈から離れて一から勉強し直す必要が日本人にはありそうです。(日本の食文化とクジラについてはこちら)
3.は米、大豆、卵、畜肉など主要な食品の多くにアレルギー反応を示す重度のアトピー患者の取り込みをアピールしたものですが、鯨肉に対するアレルギーの報告が少ないだけで、決してアレルギーにならないわけではありません。ましてや、アレルギーを治療したり改善する効果があるわけではないのです。単に代替食の選択肢の一つにすぎず、他の代替品に比べて割高なだけです。また、重金属や有機塩素化合物の汚染から来るリスクを背負うことになります。アレルギーの原因については、生活の中で氾濫した化学物質との関係、土や動物と接触する機会の喪失なども指摘されています。南極の海の野生動物に頼っても、次世代をアレルギーから守る根本的な解決策は生まれてはきません。ついでに、ミンククジラの腸内には、重篤なアレルギーを引き起こすアニサキスが大量に寄生しています。
4.については説明するまでもないでしょう。現在、世界中で年間500万人以上もの児童が飢餓で亡くなっています。さらに、それを上回る数の子供たちが極度の栄養失調となり、重度の障害や感染症に罹る高いリスクを抱えています。鯨肉が飢餓を解消するというのなら、今すぐにでもこの子たちを救って、ぜひそのことを証明してもらいたいものです。誰が彼らのもとへ届けるのでしょうか? 誰がそのコストを負担するのでしょうか? それは捕鯨擁護論者の主張する食文化の押し付けにほかなりません。アフリカの最貧国や中東の紛争地域に南極のクジラを提供するなどというのは、単に非現実的であるばかりでなく、非人道的です。なぜなら、日本ですら採算の取れない公海捕鯨と鯨肉輸送・頒布にかかるコストで普通に食糧援助を行えば、何倍、何十倍も多くの人命を救うことができるからです。
食糧不足が深刻なアフリカ諸国の中には、ODAと引き換えにIWCに加盟して日本の捕鯨を支持している国もあります。しかし、それらの国々には商業捕鯨を行う意思もなければ、その能力もありません。ほかならぬ日本自身、国の緊急時の食糧安全保障マニュアルの中で捕鯨について一言の言及もないのです。
捕鯨協会や水産庁の主張からは、何が飢餓をもたらしているのかを問う姿勢はまったくうかがえません。彼らは業界のエゴのために他人の窮状を利用しようとするばかりです。(捕鯨と食糧安全保障論についての詳細はこちら)
このように、日本人とクジラとの関係はあまりに目まぐるしく変貌を遂げてきたことがわかります。捕鯨産業が、過去からの遺産を捨て、国際競争の流れに身を任せ、あの手この手で新規需要を開拓しつつ、収益を追求していった結果として、南極の海では鯨類全体のバイオマスが1/5になるほどの荒廃をもたらし、史上最大の哺乳類であるシロナガスクジラは未だに絶滅の淵をさ迷っています。捕鯨産業の衰退は、染み付いた乱獲体質によって自らの首を絞めた結果にほかなりません。
今日、捕鯨産業は多額の税金の補助のもと、日本という飽食天国に「伝統」のブランドを銘打った〝高級嗜好品〟を提供する形で生き延びています。一方で、高値を狙った在庫転売や所得隠し、解体鯨の不法投棄、密輸・密漁、代替需要を当て込んだイルカの過剰捕獲など、さまざまな問題を生み出しています。日本人が、野生動物と節度ある長期的な共存関係を結び、自らの伝統文化を頑なに守っていたなら、こうした事態には決して至らなかったはずです。逆に、今の日本を振り返れば、当然の帰結といえるかもしれませんが……。
日本は西洋から利便性につながる多くの〝豊かさ〟を手に入れてきた代わり、本当に大切なものを失ってしまいました。クジラとのつながりも例外ではありませんでした。むしろ、そのことを象徴しているのです。今の日本に残っているのは、本質をすべて絞りつくしたあとの残り滓にすぎない〝こだわり〟だけ──。
はたして、これでも日本に南極の野生を貪る資格があるといえるでしょうか?
参考文献:「日本の捕鯨」高橋俊男、「日本捕鯨史話」(福本和夫著,法政大学)、「ザ・クジラ」(原剛著,文眞堂),「南氷洋捕鯨史」(板橋守邦著,中公新書) 他
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